テスト勉強のためしばしお休みします

いつもブログを見てくださりありがとうございます!

 

今大学ではテスト期間に入っており、テスト勉強の方に集中をしたいため2週間ほどブログをお休みさせていただきます。

ご迷惑をおかけして申し訳ございませんが、どうぞよろしくお願いいたします!

【受験の世界史】中国史 〜隋・唐帝国の隆盛〜 日本の試験制度の祖!? 超難関試験・科挙の登場と唐の前半まで

今回は、中学校の頃から耳にしてきた”・”の2帝国を見ていきます!

遣”隋”使・遣”唐”使で有名なあの国です・・・

 

中学からよく耳にするということは、それだけ重要である証とも言えます。

実際、試験でもよく問われる分野ですので、気を引き締めていきましょう。

 

  

 

目次

 

 

前回の復習

前回は中国北部を統一した北魏について勉強しました。

一番おさえるべきところだけピックアップして簡単に復習します。

 

北魏は北方遊牧民族のひとつ鮮卑の建てた国です。

しかしその北魏には、鮮卑よりも漢民族の方が多く生活していました。少数民族が多数民族を支配しているという形ですね。

 

もしこの状態で漢民族が反乱を起こしたら大変なことになります。

そのため北魏孝文帝は、生活様式漢民族に合わせる漢化政策を行ったのでした。

 

しかし、この政策には反対する人ももちろんいました。(自分がその立場になったら、と考えるとわかると思います。)そして次第に北魏は混乱に陥り、衰退していくのです。

 

その後、中国は様々な国家が誕生する南北朝時代に入って行きました。

 

 

 前回の記事です!

sthilo.hatenablog.com

 

 

隋の登場と皇帝の政策

南北朝時代も終わりを遂げます。の誕生です。大興城(現:長安渭水流域)。

 

初代皇帝文帝楊堅。名前からもわかるように、彼は文化的な政策を行いました。しかも日本に影響を与える政策を。

 

まずは均田制。これは国家が税収入を得るための手段で、農民に土地を渡し耕作させ、収穫されたものの一部を税として国に納めさせる制度です。これは日本には班田収授法の形で伝わりました。

 

この制度のもとに存在したのが租庸調制です。租・庸・調は税金の種類と捉えて問題ないと思います。(実際には庸は”労働”を意味する場合もありますが。)

 

ところで租・庸・調は均田制で与えられた土地で栽培します。ですから均田制と租庸調制は2つで1つの存在と見て良いでしょう。 

 

 

また、これまでは推薦などによって選ばれていた国の役人でしたが、隋の文帝の時代に画期的なアイデアが生まれます。

それが科挙です。簡単に言えばペーパー試験ですね。科挙ほど日本に影響を与えているものはないのではないでしょうか!

 

科挙では儒学に関する知識を問われ、最終試験に合格したものが役人になるという形をとっていました。

 

倍率は数百倍とも言われ、史上最難関の試験と言っても過言ではありません。そんな試験のためカンニングも行われていました。以下の写真のようにカンニングペーパーならぬカンニングクローズも存在したほどです笑

  

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カンニング用の衣服(細かく文字が刺繍されている)

 

その後、煬帝が即位します。彼の残した偉業は、大運河」を完成させたことです。

 

中国は黄河や長江などの大河が東西に流れていたため、東西方向の交通は問題なかったのですが、南北方向にはそのようなものがなく交通に時間がかかりました。

 

そこで彼は中国を「南北につなげる」大運河を作ったのです。

 

しかし、大運河の工事には多大な費用がかかるため、国民の生活が困窮化。反乱が起き隋は滅亡するのです。

 

大規模工事→お金がない→反乱→滅亡」。これ、お決まりのパターンな気がします^^

 

 

隋から唐へ。(前半)

隋の滅亡後、が誕生します。今回の記事ではその前半部分を書いていきます!

 

唐の長安です。平安京の設計にも影響を与えたアノ長安

 

 

初代皇帝李淵高祖です。

 

彼は律令制を確立しました。

とは刑法のこと(自分を律するから)、民法を意味します。これも日本に影響を与えていますね。

 

次の皇帝は太宗李世民。彼は周りの国を征服し、その土地には都護府というものを置きます。

 

そして征服地の統治は、その土地の権力者に委ねました。これを羈縻(きび)政策と言います。羈縻とは「つなぎとめておくもの、束縛」という意味です。

 

太宗の治世は貞観の治と称えられました。

 

 

その後唐は最盛期を迎えますが、、、ある人物の存在で衰退していきます。これはまた次回。

 

まとめ

には新たな官吏任用法「科挙」が誕生。また中国を南北につなぐ大運河が完成しかし、大運河の工事などによる財政難で隋は滅亡

 

(前半)では律令制が誕生。

 

 

この記事だけでも、隋・唐で誕生したものが日本にたくさんの影響を与えているのが分かったと思います。次回は唐の後半を見ていきます!

 

 

【受験の世界史】中国史 〜北魏の統一と政策〜 仏教文化の繁栄 孝文帝・太武帝・仏図澄・鳩摩羅什・・・

五胡十六国時代が終了し、華北(中国北部)が一つの国に統一された世界を見ていきます!

 

漢字が、、漢字が難しくて大変です・・・。でもまずは、漢字の煩雑さは忘れて歴史の流れを理解することに集中しましょう。

 

 

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道教の聖地:泰山

 

目次

前回の復習

前回は、三国時代について見てきました。

 

三国時代の流れを大まかに復習していきます。

 

まず三国とは」・「」・「の3つです。

このなかで最も勢力があったのが、です。(渭水流域を領土に持ってましたから。)魏では九品中正屯田が実施されました。

 

しかししばらくして、司馬炎の建国した西晋によって滅ぼされます。

 

司馬炎は彼の息子を次の皇帝に置こうとしましたが、その息子が”無能”でした。これが原因で、皇帝位を巡る争い八王の乱が起こります。

西晋は、この反乱の鎮圧のために北方遊牧民五胡を利用するのです。

 

鎮圧後、北方遊牧民は中国国内で勢力を拡大します。そうして、華北では彼らが建国した国が乱立する五胡十六国時代が始まるのです。

 

 

 前回の記事です。まだご覧になっていない方はどうぞ!

sthilo.hatenablog.com

 

前回言い忘れてましたが、三国時代は「3世紀」です!3つながりで覚えちゃいましょう^^(ちなみにローマ帝国の軍人皇帝時代も3世紀です。)

 

 

北魏の統一と政策

ではさっそく北魏の統一を見ていきます!

 

五胡十六国時代のあと、五胡の一つ鮮卑武帝北魏を建国し、華北(中国北部)を統一します。

 

武帝道教を保護します。道教道家の教えに基づいた宗教で、あるがままを受け入れる無為自然の考えを基礎に置いています。道家創始者老子荘子でしたね^^

 

ちなみに、お守りや風水などはもともとは道教由来のもので、気づかないうちに私たちも道教の影響を受けているのです!

 

そして、のちの皇帝・孝文帝が様々な政策を行います。

そのなかでも特筆すべきは漢化政策です。

 

北魏はもともと漢民族の国ではなく鮮卑の国でした。鮮卑漢民族を支配していたのです。

しかし北魏には鮮卑よりも漢民族のほうが多く生活してました。要するに、少数民族が多数民族を支配していたのです。

 

この状態になると、もし漢民族が反乱を起こせば鮮卑族は手も出せなくなりますね。

そのため孝文帝は、鮮卑の服装や言語などを漢民族のそれに合わせたのです。これが漢化政策です。また都も、モンゴル高原近くの「平城」から黄河流域の「洛陽」へ遷都しました。

まあ鮮卑族漢民族媚びを売ったのですね笑

 

また孝文帝は均田制を実施、人々の生活の安定と税収の確保を目指しました。

 

このような北魏でしたが、漢化政策に反対する人ももちろんいました。そして反乱が起き、北周という国に統一されるのです。

 

その後、中国北部と南部はそれぞれ北朝南朝に分かれこの時代がしばらく続きました。

 

 

魏晋南北朝時代の文化・仏教の隆盛

魏から南北朝時代までを魏晋南北朝時代と言います。

 

この時代には仏教道教文化が盛んになります。

 

まずインドの方からさまざまな仏典が中国に伝わり経典の翻訳が盛んになるのです。

それに貢献したのが仏図澄(ぶっとちょう)鳩摩羅什(くまらじゅう)

 

東晋の時代には、法顕グプタ朝時代のインドで仏教を学び仏国記を著しました。

 

また道教も誕生します。創始者寇謙之(こうけんし)です。彼は北魏の太武帝の保護を受けました。

 

この時代には竹林の七賢で有名(?)な清談という哲学的論議が盛んになりました。

 

文学や絵画、書道などの文化も華やかになります。

陶淵明の詩、昭明太子文選画聖とよばれた顧愷之(こがいし)書聖と呼ばれた王羲之(おうぎし)など多種多様なひとが誕生したのです。

 

 

まとめ

鮮卑華北を統一し、北魏が誕生する。漢民族生活様式を合わせる漢化政策を行った。

 

魏晋南北朝時代の文化まとめ

 

仏図澄鳩摩羅什らによる仏典の翻訳

法顕のインド留学

寇謙之による道教の成立

清談の流行

陶淵明昭明太子顧愷之王羲之らの文化的貢献

 

  

 関連記事もどうぞ^^

 

 

sthilo.hatenablog.com

 

 

 

【受験の世界史】中国史 〜三国時代〜 後漢滅亡後の分裂の中国 / 魏・蜀・呉の登場

今回は、後漢が滅亡した後の中国世界を見ていきましょう。

 

この時代はいわゆる三国時代というもので、三国志』の世界です。

様々な人物が登場するので、慎重に。

 

 

目次

前回の復習

前回は、後漢の誕生とその中身を見てきました。

 

まず前漢が滅亡すると、王莽(おうもう)という人物が周王朝」の復活を目指してという国家を建国します。しかし彼の政策は時代の風潮に合わず失敗

赤眉の乱によって新は滅亡します。

 

その後、劉秀皇帝・光武帝として建国したのが後漢です。都は洛陽

 

後漢は、前漢対外政策(外交、戦争)のし過ぎで滅亡したと考え、国内政策を重視した国づくりを行おうとしました。

 

しかし国内では、勉強をして政治家に成り上がった人々皇族との間でいざこざが起きており、後漢は混乱状態でした。

 

そして黄巾の乱によって後漢滅亡するのです。

 

 

 前回の記事貼っておきます。ぜひご覧ください!

 

sthilo.hatenablog.com

 

魏・蜀・呉の登場、一番強いのは?

では、後漢が滅亡した後の世界を見ていきましょう!

 

後漢が滅亡すると、中国国内は分裂状態を極めていました。多くの軍人が、次の皇帝位を手に入れようと争いを始めるのです。

 

その中でも有力な3国がありました。」・「」・「です。

 

まずは

曹丕(そうひ)が建国した魏は華北(中国の北)を支配します。また、下の地図を見ると渭水流域も含んでいますね。(ということは・・・)

 

魏では前漢時代の官吏任用法・郷挙里選にかわって、九品中正を採用しました。

これは地方の役人が人々を推薦する仕組みでしたが、結局は有力な家系の人々のみが選ばれるという結果となってしまいました。

 

 

また、戦乱の時代で生活に苦しんだ人々を救済するために屯田という制度も始めました。

これは、土地を失った農民を、国の所有している土地で働かせて彼らの安定を図る目的がありました。国としても税金を手に入れられるので一石二鳥ですね。

 

 

次に

蜀は劉備が建国しましたが、まもなく魏に滅ぼされてしまいました。

 

そして

呉は孫権が建国した国です。これは後で出てくる西晋に滅ぼされます。

 

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三国時代(魏・蜀・呉)の地図

 

そしてこの3国の中でも力があったのが、渭水流域を持つ魏でした。

 

西晋東晋

そんな魏でしたが、しばらくして司馬炎の建国した西晋という国に滅ぼされてしまいます。

 

しかしこの西晋、すぐに問題が起きるんです。

 

司馬炎は次の皇帝位を息子に譲ろうとしました。しかし、言い方が悪いですがその息子、「無能」だったのです。

そして人々はそんな人を皇帝にできるか!と怒り、反乱が起きるのです。

これを八王の乱と言います。

 

西晋はこの反乱を鎮圧しようと、北方遊牧民五胡の力を借りました。五胡とは匈奴鮮卑・羯・氐・羌」の5つの遊牧民の総称です。匈奴鮮卑を覚えていれば問題ありません。

 

彼らの影響で反乱は鎮圧できました。

 

でも、それで終わらないのが歴史です。

 

北方遊牧民らはせっかく中国国内に入ったんだから、自分たちが中国を統一すればいいんじゃない?と思い立つのです。

これについてはまた別の記事で話します。

 

話は元に戻って、この反乱から逃れた司馬睿(しばえい)中国南部東晋を建国します。都は建康(現在の南京)。

しかしこの国もそれほど強くはなく、宋・斉・梁・陳という国家が西晋に続くのです。

 

華北では遊牧民らによって様々な国家が次々と誕生する五胡十六国時代に突入します。

 

こまごまとした国が多く誕生するので大変ですね💦 

 

次回は、華北の統一から話していきたいと思います!

 

まとめ 

後漢の滅亡後、魏・蜀・呉が争う三国時代に突入。

 

・最も力のあっただったが、西晋に滅ぼされる。

 

西晋では皇帝位に対する反乱を鎮圧するために北方遊牧民を用いたが、それをきっかけに中国に遊牧民が侵入する。

その結果、様々な国が次々と誕生するようになる。

 

 

 

【受験の世界史】中国史 〜前漢の滅亡から後漢まで〜 

回は、前漢が滅亡したその後の中国の様子を見ていきましょう!

 

意外とこの分野も情報量が多いです・・・笑

 

 

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光武帝(劉秀)

目次

前回の復習

回は、前漢の成立から前漢最盛期の皇帝「武帝」の政策について書きました。

 

ここでは、武帝の復習を中心に書いていきます。

 

ず彼は、北方民族の匈奴を倒すために西方の月氏(地域の名前です)と同盟を結ぼうとします。これは残念ながら失敗しました。

 

らに、衛氏朝鮮南越国(現北ベトナム)を支配し、領土を拡大しました。

 

これらの対外政策(争い)により、中国国内の経済は苦しくなります。戦争には多額のお金が必要ですからね。

 

苦しむ国民をどうにかしなければならないと思った武帝は、様々な経済政策をとります。

 

ず、物価を安定させるため均輸法」・「平準法を行いました。また、塩・鉄・酒の専売偽金の流通を防ぐため五銖銭の作成などにも手をつけます。

 

かしその努力も実らず、彼の死後前漢は衰退の道を歩み始めるのです。

 

 

復習用に前回の記事をどうぞ。

 

sthilo.hatenablog.com

 

 

前漢の滅亡と新の登場

武帝の死後、衰退していく前漢の中で「次に中国を支配するのは誰なのか」を決めるために国内が混乱します。

 

争っていたのは、宦官(かんがん)外戚たちです。彼らは「皇帝の側近」という簡単なイメージで大丈夫です!

 

その中で勢力を伸ばした王莽(おうもう)という人物は、前漢の皇帝から位を奪い、という国家を作り上げるのです。

 

かし、この新という国は周王朝時代の伝統的な制度を取り入れようとしました。

この改革は当時の人々には合わず、多くの人々の反感を買います。(ところで、周といったら・・・?、、、血縁関係のもとでの封建制度でしたね!)

 

 

そうして赤眉の乱という争いをきっかけに、新はあっけなく滅亡するのです。

(秦のように急激な改革を行ったんですね。歴史に学ばないとこうなるのも当然なような気もします・・・)

 

 

後漢の成立とその中身とは?

新の滅亡後、劉秀皇帝・光武帝として後漢を建国します。(都は洛陽

 

後漢は、前漢の衰退が「対外政策のやり過ぎで国内の経済が悪化した」ことにあると考え、内政を大切にした政治を行います。

 

かし時すでに遅し。

 

国内では、儒学を学んで政界に進出した豪族と、皇帝の側近(宦官・外戚)との対立が起きていました。

要するに、「勉強して政治家になった人々」「生まれつき高い身分にいて、最初から政界にいた皇族」との対立ですね。

 

勉強して政界に入った人々からすれば、皇族は嫌な存在ですよね。

 

そしてそのような混乱状態が続いたのち、宗教結社・太平道によって黄巾の乱が起き、220年、ついに後漢滅亡するのです。太平道の指導者は張角といいます。

 

後漢の文化

後漢時代にも様々な文化が誕生します。 

 

まずは学問が発展します。

鄭玄(じょうげん)らによって教典の解釈を重要視する訓詁学が生まれました。

日本で言えば、現代の人々が源氏物語などの古典を正しく解釈しよう!って感じですかね。

 

また、製紙法も発達しました。これまでは竹簡といって竹に文字を書いていましたが、蔡倫という人物が製紙法を開発し、紙の使用が普及したのです。

後漢で誕生した製紙法の技術はイスラーム世界などの製法にも伝わり、世界中に紙が普及します。

 

また史書も作られます。

班固という人物が編年体漢書を著します。編年体とは、歴史を年代順で記したものでしたね。

 

 

まとめ 

前漢が滅亡した後、が建国される。しかし新は時代の風潮に合わない改革を行ったためすぐに衰退

 

・その後劉秀光武帝として後漢を建国する。後漢黄巾の乱によって滅亡するが、様々な文化が誕生した。

 

 

 

【受験の世界史】中国史 〜前漢・武帝の政策〜 秦の滅亡を教訓に。 

回は、中国史最初の鬼門前漢について書いていきたいと思います!

どうして鬼門かというと、「情報量が多い!」ということにつきます笑

 

ただ安心してください。前漢の歴史で登場する皇帝の99%武帝です。

彼の政策のみをしっかりと押さえれば、前漢は完璧になったも同然ですので頑張っていきましょう!

 

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前漢の領域(濃い緑の部分)

 

目次

前回の復習

前回は、秦の中国統一と政策について書きましたね。今回は問題形式で復習しましょう。

 

1:秦の都の名前を答えなさい。

 

2:始皇帝が行なった郡県制について説明しなさい。

 

3:秦で行われた思想統制を漢字4文字で答えなさい。

 

4:秦が統一した貨幣の名前を答えなさい。

 

5:中国最初の農民反乱の名称を答えてください。

 

 

正解は・・・

 

 

1:咸陽(かんよう)渭水流域にありました。

 

2:土地を郡と県に分け、それらを役人に統治させる制度。

 

3:焚書・坑儒:坑儒とは儒家を学ぶ者を穴埋めにすることです。秦は法家の国でした。

 

4:半両銭:円い貨幣です。

 

5:陳勝呉広の乱

 

 

あやふやだった部分は必ず復習するようにしましょう!

 

 

前回の記事です。復習用にどうぞ^^ 

 

sthilo.hatenablog.com

 

 

 

前漢の誕生と最盛期・武帝の政策 

ではさっそく前漢について書いていきます。

 

秦の滅亡後次の中国皇帝を決めるための争いがおこります。

 

そうして最終的に勝利を収めた劉邦(りゅうほう)が、高祖として前漢初代皇帝となり、ここに前漢が誕生するのです。(都は渭水流域長安

 

前漢は、秦の急激な政策による国の衰退を、教訓として胸に刻みました。

そこでまず、秦で行われていた「郡県制」をやめ郡国制を行います。

 

郡国制とは郡県制に封建制度を加えた政策のことで、前漢直轄地には封建制度を、それ以外の土地には郡県制を行いました。

 

かしその後、春秋・戦国時代のように諸侯らが自らの勢力を拡大しようとするのを防ぐために、前漢諸侯たちの領土を削減していきました。

 

そんなことをされたら諸侯たちはたまったもんじゃありませんね。争いが起きます。

五楚七国の乱です。

 

この争いは前漢によって鎮圧されるのですが、その後前漢は、諸侯たちが再び暴れるのを恐れ、実質的に郡県制を行うようになります。

 

郡国制諸侯の領土削減諸侯の反乱郡県制

の流れをおさえましょう!

 

 

していよいよ、前漢最盛期の皇帝武帝が登場します。

武帝は本当にいろいろな政策をしました。1つ1つ説明していきます。

 

 

まずは外交政策から。

 

武帝の時代には、北方民族の匈奴が勢力を強めていました。前漢にとってはこの存在が厄介なので、彼らを倒そうとします。

 

そこで武帝は、前漢西方にあった月氏という地域に張騫(ちょうけん)を派遣し、大月氏一緒に匈奴を倒そう!という内容の同盟を結ぼうとさせます。

しかし残念なことにこの政策は失敗

ただアジア西方の知識が中国に伝えられるきっかけにはなりました。

 

 

また武帝は、衛氏朝鮮(現在の朝鮮半島)と南越国(現在の北ベトナム)を征服し、それぞれに楽浪郡日南郡を置いて支配します。

領土をどんどん広げていくのですね。

 

前漢の対外政策は、邪魔者を倒して領土を拡大する、というのが目的のようですね。

 

 

次に国内の政策を見ていきます。

 

前漢国内では、度重なる対外政策(戦争など)でお金に困り始めていました

そこで武帝均輸法」・「平準法を行います。

 

均輸法とは特産物を納めさせ、それが不足している地域に販売することで物価を調整する」法律。

 

平準法物資が豊富な時にそれを貯蓄し、不足した時にそれらを売ることで物価を調整する」法律。

 

物価を調整することは、人々の将来への不安を和らげ、予期しない反乱を防ぐことができるので優れた政策だと考えられますね。

 

 

また、人々の生活必需品であった塩・鉄・酒の専売を行います。これにより、国家の税収入を増やそうとしたのです。

 

さらに、偽金の流通で経済が悪化するのを防ぐために五銖銭の製造を行いました。

 

 

武帝はこのように対外にも国内にも様々な政策を敷きましたが、その努力も期待以上の成功とはなりませんでした。彼の死後、前漢は衰退の一途をたどっていくのです。

 

 

前漢時代の文化・社会

前漢の時代には様々な文化や社会も誕生しました。

 

まずは武帝の時代に董仲舒(とうちゅうじょ)によって儒学」が国学となりました。儒学というのはもちろん、孔子が始めた「儒家」を学ぶ学問ですね。

 

また史書も書かれました。

前漢時代に書かれた歴史書でおさえるべきは、司馬遷史記です。

 

ところで、歴史書には2つの種類があり、1つは紀伝体、もう1つは編年体です。

 

紀伝体「歴史を、人物ごとに書いたもの」、伝記のようなものですね。

編年体「歴史を年代順に記述したもの」で現在の日本で使われている教科書は編年体で書かれています。

 

史記紀伝体です!

 

前漢時代には官吏任用制度として郷挙里選が採用され、地方長官が官吏を推薦するようになりました。

 

まとめ

前漢の最盛期の皇帝は「武帝」。

 

武帝は領土拡大のため対外政策を行い、それに伴う財政難のため国内政策も行なった。 

 

前漢時代には様々な文化・社会が誕生した。

【受験の世界史】中国史 〜秦の中国統一と始皇帝の政策〜 秦の統一から滅亡まで

戦国の七雄が1つに統一されます。

 

こんにちは!

今回は、戦国の七雄を1つにまとめた「秦」についてみていきましょう。秦は中学校の時から聞いてきましたが、その詳しい内容はあまり聞いてこないと思います。

秦の政策から衰退まで詳しくみていきます! 

 

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万里の長城

 

目次

前回の復習

前回は春秋・戦国時代について勉強しました。 

 

この時代には、周王の存在は薄れ、周りの諸侯たちが自らの勢力を拡大しようと立ち上がっていました。争いの時代です。

 

 

春秋時代には形式的には諸侯たちは周王を尊重していましたが(尊王)、戦国時代に入ると諸侯たちは完全に周王を無視し始め自分たちの利益・名誉のために立ち上がるのです。

 

 

そのような戦乱の時代には様々な技術も発展しました。

その1つは農業技術です。この時代には鉄で武器を作っていたため、それとともに鉄製農具も作られるようになりました。さらに、牛に土地を耕させる牛耕という技術も誕生し、中国における農業生産力の向上に大きな影響を与えました。

 

 

戦国時代に入ると、戦国の七雄と呼ばれる7人の有力諸侯が建国した国が乱立します。韓・魏・趙・燕・斉・楚・秦の7国です。

 

 

またこの争いの時代の中で、人々は社会のあるべき姿について考えるようになり、様々な思想が誕生しました。これらを総称して諸子百家と言います。

例えば、儒家道家、法家などがそれです。詳しくは以下に貼る記事からどうぞ^^

 

 

前回の記事です!復習用に。

sthilo.hatenablog.com

 

 

秦の統一と始皇帝の政策

戦国の七雄たちの争いにピリオドです。 

 

紀元前221年、七雄の1つ「秦」が中国を統一します。

渭水流域咸陽(かんよう)です。

 

秦の王であった政はこれまでの「王」という称号の代わりに皇帝という称号を用いるようになります。

彼は中国最初の皇帝ということで「(秦の)始皇帝というのです。

 

彼は様々な政策を行います。

 

まず、秦という広大な土地を皇帝一人で統一するのは大変なので、中国をいくつかの郡や県に分割して、それらを役人に統治させるという郡県制を行います。

イメージとしては日本の都道府県みたいな感じですね。中央政府が全て統治するのではなくて、各都道府県の政治は主に都道府県知事が行っていますよね。 

 

また様々な統一政策も行います。

まずは思想統制です。始皇帝焚書(ふんしょ)・坑儒を行いました。

焚書というのは「医薬・占い・農業などの本以外は全て焼きはらう」ことで、坑儒というのは儒家を学ぶ人々を穴に埋め殺す」ことを意味します。

秦は法家の国だったので、それに反する思想の人々は要らないということですね。

 

単位も統一します。度量衡の統一です。これは有名だと思います。

 

貨幣半両銭に統一。これまでは布銭や刀銭など様々な形状の貨幣が流通していたのですが、始皇帝は半両銭という”円い”貨幣に統一するのです。

日本の硬貨が円いのもここから来ているのでしょう。

 

秦の領土の北方では匈奴(きょうど)」とよばれる民族が活動していました。彼らの侵入を防ぐために長城万里の長城を建設するのもこの時期です。

 

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半両銭

 

秦の滅亡と前漢の誕生

このように様々な政策をとってきた秦でしたが、度重なる対外政策や土木工事などにより人々が苦しみ、国内が混乱していきます。あんまりやり過ぎは良くないということですよね。

 

始皇帝の死後、秦国内では争いが起こります。

 

まず初めに、中国最初の農民反乱「陳勝呉広の乱が起こります。この戦いの後、秦はいよいよ滅亡するのです。

 

その後、劉邦(りゅうほう)項羽が次の皇帝を決めようと対立し、数年にわたる争いの末、劉邦が勝利、皇帝になります。

皇帝の名を高祖といいます。

ここに、前漢が誕生しました。

 

次回は前漢について書いていきたいと思います!

前漢は中国史を勉強する中での最初の難関です。情報量がものすごく多いので・・・。でも、あきらめずに頑張りましょー!

 

まとめ 

が戦国の七雄を統一する(前221年)。始皇帝は様々な「統一政策」をとる。

 

・ しかし、始皇帝急激な政策のため人々は苦しみ、秦は滅亡

 

・最終的に、劉邦が皇帝位に就き、前漢を建国する。